「月は二度、涙を流す」そのI


 望達四人が帰ってきたのは、午後五時近くだった。屋敷を取り囲む草原が、今は朱色に染められている。その景色を眺めているのは四人と、一人の少年だった。項を隠す程度の長さの髪の毛は溶けゆく氷のように柔らかく、中性的な美しさを持つ端麗な顔立ち。歳は十一、二程度だ。少年は一言も口を聞かず、終始窓の外の風景を見ていた。
 この少年は優香が一千万で買ったものだった。真一郎、望とも交わりを持った優香は、別の少年、出来ればまだ一度も女を知らない少年が欲しかった。そして、オークションで最も自分好みの少年を競り落とした。
「ごめんね、恵美さん。あなたも欲しい子がいたのに‥‥」
「別にいいですよ。元々は優香さんの旦那のお金ですもの」
 助手席に座っている恵美は首だけを曲げて、後部座席に座っている優香を見て言った。その優香の右隣に座っている少年は、恵美をチラリとも見ようとしなかった。
 運転席の真一郎は窓を開け放って、くわえ煙草の煙を外に吐いている。少年の左隣に座っている望は、少年が見ている風景と同じ風景を、少年と同じように黙って見ている。二つの美しい顔立ちは、まるで兄弟か何かのように思えた。
 少年を乗せた車は両側に草原の広がる道を進み、門をくぐり、車庫へと向かった。
 車を降りた優香は真一郎から地下室の鍵を受け取る。
「今度から私が鍵を持ってようかしら? 何だか心配だものね」
 冗談っぽく優香は言いながら、鍵穴に鍵を差し込む。真一郎は苦笑いを浮かべながら、優香の刺すような視線に耐えた。優香が手を回すと、ガチャリという音がした。その音を確かめると、優香は扉を押す。重い鉄製の扉が嫌な音と共にゆっくりと開く。確かに、優香が鍵を差し込むまでは鍵はかかっていた。
 優香は扉を開けると少年を中に招き入れた。
「これから、死ぬんですか?」
 少年は薄暗い階段をぼんやりと眺めながら、そう呟いた。暗闇の中に浮かぶ少年の顔は、男なのか女なのか分からない。優香は刹那驚いた表情を見せたが、すぐに柔和な顔になる。そして少年の首筋をゆっくりと撫でながら、耳元で呟く。
「そんなわけないじゃない。これからずっと、楽しい事をするのよ。きっと、あなたも喜んでくれると思うわ」
「‥‥」
 一抹の不安を拭いきれない様子で、少年は階段を降りていった。優香もその後に続く。優香はこの少年がとても気に入っていた。従順そうで、大人しそうな雰囲気を持つこの少年が。
 オークションの本に載っていた彼のプロフィールは、義理の母から性的虐待を受けていた為、大人の女性に対しては決して反抗しない、というものだった。優香をこれを見て、望や光では果たせなかった思いを募らせていた。望はもともと自分に対してなつこうなどとはしなかった。光はなついたが、それはどこか他人行儀な馴々しさがあった。そんな従順さは、優香には必要無かった。自分はもう三十を過ぎている。自分の美しさには自信があったが、それももうあと数年もすれば皺が出てきて、誰の相手にもされない女になってしまうだろう。そうなる前に、一人でいいから自分に対して完全なる従順を誓える者を作りたかった。そして、この子ならそれが出来ると確信していた。
 階段を降りると二つの扉がある。優香は右の扉の鍵を外して、中を見た。そこには舞夜がいた。ベッドに寝そべって漫画を読んでいる。優香の存在に気づくとベッドから起き上がり、母犬を見つけた子犬のように駆け寄ってくる。その顔は、あどけなさを残した、実に子供らしい鮮やかな笑顔だった。
 優香は舞夜の顔を見て、昨日の行為を思い出し、彼女の顔がそれを全く感じさせない事に僅かだが恐怖を抱いた。無意識のうちに少し顔が歪む。それでも、舞夜は笑顔を崩さずに優香を見上げている。
「‥‥いい顔ね、あなた」
「‥‥?」
 優香は皮肉のつもりで言ったが、舞夜はその意味など気づく様子も無かった。
 あの浴室の行為を、決してこの子は幸福な事としては覚えていないはずだ。あれの重大さを分かっているとはあまり思えないが、少なくとも痛みとして覚えたはずだ。頭の奥にまで到達するほどの鈍痛として。現に、これまで多くの子がそう感じ、再び自分を見た時には膝をガタガタと鳴らして恐怖した。触れる事はおろか、近づく事さえも拒んだ。なのに、何故この子はこんな顔をしているのだろう。
 望が憎たらしい院長に見えたあの時、この子が昔の自分に見えた。全ての後、昔の自分はこうして笑ったのだろうか? 院長に再び笑いかけただろうか? 笑っていない。一度たりとも笑った記憶など無い。枯れる事を知らない涙が、痛みも悲しみも流してしまおうと止まる事無く溢れただけだった。
 この子の頬には涙の痕が無い。目も腫れていない。泣かずに笑う事で、何故あれを心に閉じこめる事が出来るのか。
 考えれば考える程、優香の思考は泥沼の中に落ちてゆく。答えの分からない底へ沈んでいく。優香は頭を強く振ると、考える事をやめた。檻に閉じこめられた子供に、何かが出来るはずがない。この子は自分ではない。ただ、単に笑う事しか知らないから、笑うだけなのだ。それ以外にあるはずがない。
 もう一度強く頭を振った優香は、マネキンのような偽物じみた笑みを舞夜に向けた。
「お友達よ。たまに一緒に遊ぶから、仲良くね」
「‥‥」
 優香は、少し驚いた顔をしている少年の方を見た。ここに別の人間がいるなど、思ってもいなかったのだろう。舞夜の顔をくいるように見つめている。
 舞夜は光に見せる笑顔とは少し違った笑顔を、少年に見せた。少年はその屈託の無い笑顔にしばらく言葉を失っていたが、やがて何かを悟ったのだろう、破顔して手を差し出した。
「‥‥よろしく」
 その言葉を聞いて、舞夜も手を差し出す。二人は優香から見ると何とも儚げな握手をしる。少年はゆっくりと手を離し、また元の俯きがちの顔になり、舞夜のいる右の部屋ではない左の部屋に自ら入っていった。舞夜も再び部屋に戻り、漫画を読み始める。優香はそれを見届けると両方の扉を閉め、鍵をしっかりと掛けた。そして、階段を上がり、入り口の扉にもしっかりと鍵をかけた。
 車庫に戻ると、そこには望だけがいた。恵美と真一郎は夕食の準備にとりかかっているのだと言う。望は優香の顔を覗き見る。
「マ‥‥女の子の方は元気でしたか?」
 優香は望の落ち着きの無い顔を見据え、明白に嫌な顔をする。何も知らずに平気であの子の様子を聞いてくる望の無神経さに腹が立った。
「ピンピンしてたわ。何にも心配する必要無いわ。何だったら、望さんが見に行く?」
 そう聞く優香の顔を、望はチラリとだけ見てすぐに視線を鉄の扉に戻した。
 舞夜の処女を奪ってしまった自分。何だか、そんな自分は彼女に会いに行く資格は無いような気がしていた。まだそういう歳ではない、という事ではない。背中に残る五本の傷跡が、舞夜の事を考えると何故かズキズキと痛んだ。こんな感情は初めてだった。これが罪悪感というものなのか。他人を傷つけるという事がいたたまれなくなる感情。この罪悪感はきっと、舞夜本人を見たらもっと深く自分を抉ってしまうだろう。だから、まだ舞夜には会えなかった。
「いえ、また今度にします」
 そう、と一言だけ優香は言うと、早々と車庫から出ていってしまった。
 鉄の扉をじっと眺めながら、望は光を抱けばまたこんな感情に捕われるのだろうか、と少し恐くなった。そしてすぐに、いやそんな事は無い、と思いなおす。自分は光を誰よりも愛しているのだ。罪悪感などに捕われるはずがない。きっと今まで生きてきた中で最も心地好い満足感に支配されるはずだ。
 望は煙草を口にくわえて勢いよく煙を吸い込みながら、そう自分に言い聞かせた。


 その日の夕食時の光は、四人から見ても不思議なほど上機嫌だった。メニューは別段好物でも何でもないハヤシライスだったが、珍しくおかわりもした。優香がそんな光を疑問ありげに見つめる。
「何かあったの? 光さん。何だか気分が良さそうだけど」
 光は早いペースで運んでいたスプーンをゆっくりと止め、優香を見た。おそらく何でもない顔のつもりなのだろうが、その顔は常に微笑みが浮かんでいた。
「ふふふっ、またあの子に会ったの」
 その言葉で四人の顔が蒼白になる。望と恵美がいつかのようにゆっくりと真一郎の方を見つめる。真一郎は信じられないというような顔をしている。しかし今度は、優香も似たような顔をしていた。顔の筋肉が固まったように動かなかった。
 あの子とは間違いなく舞夜の事だった。しかし、さっき少年を地下室に連れていった時、確かに鍵は掛かっていた。男女別々の部屋の鍵も確かに掛かっていた。確かに掛かっていた。優香の頭の中で、ガチャリという音が何度も反響する。その反響を割るように、光の言葉が耳に入ってくる。
「今日ね、たくさんお話したの。いつか、お母さんが泥棒だって言ったでしょ? あの子はそんな子じゃなかったわ。とってもいい子だったのよ」
 それを聞いて、今度は望が驚愕の色を隠せなかった。
 たくさんお話した? そんな事があるはずがない。舞夜には舌が無いのだ。話が出来るわけがない。紙にでも書いて意志疎通をはかったのだろうか。しかし、光の台詞からして、そういう事は考えにくかった。光は確かに“お話した”と言ったのだ。一体どういう事なのだ? 望はスプーンがどうしても動かせなかった。
「一体、どういう事を話したんだ?」
 手が動かせない代わりに、口が動いた。光は挙動不審の望の様子を知ってか知らずか、怪しげな笑みを作る。
「秘密。男の人には言えない事」
 望の心臓が激しい動悸を起こす。目の前の映像が心臓の鼓動と共にグラグラと揺らめく。言えない事‥‥。それはもしかしたらあのパーティーの事ではないだろうか? どうやってその事を伝えたかは分からないが、彼女は何かしらの事を光に伝えたのだ。それも、本当にパーティーの事かどうかは分からない。全く違う事かもしれない。しかし、パーティーの可能性も拭いきれない。
「でも、恵美さんやお母さんにも言えない事なの。私とあの子だけの秘密」
 望は光の言う一字一句を逃さずに聞いていた。そして、その中から一つおかしな所に気づいた。光は“あの子”と言った。意志疎通が出来るのならば、名前を言うはずだ。それは本名かもしれないし、舞夜という名前かもしれない。どちらにしろ、彼女が光に名前を言わなかった事は、肝心な部分だった。
 食堂は不思議な空気に包まれていた。光だけが楽しげに食事を進め、他の四人は殆ど食事が手に付かなかった。光はそんな事はどうでもいいかのように、二杯目のハヤシライスを平らげ、一人でごちそうさまを言うと、午後あの子と遊んで勉強してなかったから部屋で勉強してくる、と言って、まるでスキップをするかのような軽やかな足取りで食堂から出ていった。
 残された四人は互いが互いの顔を見合わせた。飛び交う視線全てが、互いを疑い合うように鋭かった。
「今回は私がはっきり言うわ。確かに鍵は掛かっていたわ。中にあの子がいたわ。絶対に出られるはずが無い」
 優香が望の胸ポケットから無理矢理煙草を取り、乱暴に火を付けた。それに続くように望も煙草に火を付ける。
「あの子には舌が無いはずなんだ。喋れるはずがない。一体どうやって、光と意志を疎通する事が出来たのか分からない」
「紙にでも書けばいいじゃない。そんな事よりも、どうやってあの子があそこから出られたのか、そっちの方が気掛かりだわ」
 吐き捨てるように優香が言うと、それっきり会話は途切れた。理由は至極簡単だった。誰にも分からなかった。一体どうやってあの部屋から出たのか。自然に鍵が外れるなんて事はありえるはずがない。鍵は真一郎が朝からずっと持っていた。複製は一つもない。なら、可能性としてあるのは一つだった。
「真夜中になってから、あの子の部屋に行こう。考えられるのは一つだけだ。あの部屋に抜け穴があるって事だ」
 望がそう言うと、三人も無言でそれに同意した。外はもう殆ど限りなく黒に近い碧色だった。後少しすればそれは完全な闇になるだろう。光も眠るだろう。そうしたら真実が見えてくる。闇の向こうにきっと真実がある。四人はそんな事を考えながら、夜の帳が完全に降りるのを待った。


 凄まじい勢いで扉を開けると、舞夜の顔がバッと振り向いた。手に持った漫画本が絨毯の上に落ちる。それを冷たい瞳で見つめる望。その後ろには優香と恵美がいる。真一郎はもしかしたら光が来るかもしれない、という事で地下室の入り口に待機している。
 望はドスドスと音がする程、力強い足音を立てながら部屋に入る。舞夜は鼠を追う猫のように、瞳を大きくして望を見ている。望はベッドの隣で突っ立ってる舞夜を乱暴に退かすと、ベッドを持ち上げた。そこには絨毯が広がっているだけだった。踏んでみるがへこむ感覚は無い。望は入り口で立っている恵美を睨む。
「恵美さん。この絨毯の下に穴があるって事は無いのか?」
 いつもとは打って変わり、取り乱した形相の望に圧されたのか、恵美は突発的に反応してしまう。
「下はコンクリート敷のはずだから、スコップとかそういう物で穴を開ける事は出来ないと思うわ。ドリルみたいな物を使うなら話は別だけど。だけど、そんな事があったら音で分かるだろうし、ドリルなんて大袈裟な物をここに運べるはず無いと思う」
 望はそれを聞くと尚気分を害したようで、乱暴に床を足で叩いた。しかし、どこも冷たい壁に音が吸い込まれていくだけで、とても穴が開いているとは思えなかった。ベッドを無造作に戻した望は風呂場やトイレに続く扉を開ける。風呂場には湯が張ってなく、冷たい空気が漂っているだけだ。当然窓は無く、どこを見渡しても灰色のコンクリートしか見えない。こちらは絨毯も何も張ってない為、コンクリートが剥出しになっている。どう見ても、抜け穴があるようには見えなかった。トイレも同様で、やはりどこを見てもそれらしき物は発見出来なかった。
 望は部屋に戻った。舞夜がベッドの上に座っている。その両隣に恵美と優香が腰掛けている。舞夜は無表情のまま、二人の顔を交互に見つめている。そこには恐怖や緊張と言った雰囲気は微塵も感じない。欝陶しい。そんな表情にもとれるような顔だった。
「何やってるんだ? 二人共」
 望は大して動いてもいないのに首筋にうっすらと汗をかきながら、恵美と優香に言う。「この子から直接何か聞こうと思って。でも、やっぱり舌が無いから喋れないわ」
「じゃあ、これ使って」
 そう言うと、望はズボンのポケットから紙切れとボールペンを一本取り出して、優香に渡した。優香が言ったのだ。紙にでも書けばいいじゃない、と。優香は強く頷くと舞夜に紙とボールペンを握らせた。がしかし、舞夜はペンを握ったものの、何も書こうとしない。優香が舞夜の肩を撫でながらゆっくりと言う。
「あなた、今日光さんに会ったんでしょう? どうなの?」
 舞夜は優香の方を向くと、首を縦に振った。優香はそのあまりにも素直な態度に少し驚く。しかし、それは分かっている事なのだ。そんな事を聞いても仕方ない。問題はこの後だった。
「それじゃあ、どうやってこの部屋から出たの? この紙に書いて」
 優香は小学生に算数を教える女教師のような口調で言う。舞夜は俯いて紙を見つめるが、相変わらず何も書こうとせず、やがて顔を上げて扉を指差した。その指の先にある扉に、三人が目を向ける。舞夜はいつまでもその指を降ろさない。望が大きなため息をつく。 「扉を開けて出たって言うのか? ふざけてるのか。鍵が掛かっていたんだぞ? 出られるわけないじゃないか! 正直に言うんだ。どうやってここから出たんだ?」
 望は当たり構わず怒鳴り散らした。しかし舞夜の表情は崩れず、身動ぎもせず、指は相変わらず扉を指し示している。望は歯軋りを何度かすると、舞夜に近付き、その胸倉を掴んだ。恵美が慌てて血管の浮かぶ望の腕を掴む。しかし、望は手を放そうとしない。
「いいか? 俺はな、お前が光に似てるから大金出して買ったんだ。理由はそれだけなんだ。お前が光に手を出してどうするんだ? よく聞くんだ。どうやってここから出た? とっとと言わないと‥‥殺すぞ」
 望の顔が憎しみに歪んでいた。それを興味深く見つめる舞夜。その顔が、望の神経を更に逆撫でした。歯軋りする口の端から、真っ赤な血が零れる。
 望は舞夜が光に似ているから買った。光の代わりになれば、それでよかった。しかし、舞夜は光の代わりにはならなかった。光と違い、勝手に部屋から出て、勝手に光と交流を持っている。本物の光はそんな事はしない。人なつっこくついてきて、決して自分勝手な事はしない。それが光なのだ。なのに、こいつはそれをしてくれない。
 望の中に煮え切らない怒りが込み上げていた。車庫の中で、一瞬でも彼女に対して申し訳ないと思ってしまった自分が馬鹿に感じ、より腹が立った。
「望! やめなよ。そんな事言ったって、この子が話してくれるとは思えないわ。じっと待った方がいいわ。今ここで殺しては駄目よ」
 目を血走らせる望を諭すように恵美が言う。
 恵美は恐かった。こんなに恐ろしい顔つきの望は見た事が無かった。初めて彼を狩りに誘った時も、彼は無表情な顔をしていた。どんな事があっても、望は自分自身を曝け出そうとはしなかった。しかし、今は違う。今は感情を表面に出し、乱暴に怒鳴り散らしている。この状態が続く事は決して良くない。とにかく今は落ち着かせなければいけない、と恵美は感じていた。それに勢いでこの子を殺したら、どうやってここからこの子が出たのか永久に分からなくなるかもしれない。
 しかし、望は歯の隙間から荒い息と血を漏らしたまま、手を放そうとしない。無表情の舞夜の足が微かに宙に浮く。恵美は素早く手を上げると、望の顔を思いっきりひっぱたいた。乾いた音が雷のように刹那室内に響く。それで正気に戻ったのか、はたまた単なる驚きか、どちらにしろ望は手を放した。舞夜はまるでパラシュートで地上に降りるように、両足でしっかりと着地すると、また元の無表情で三人を見つめた。
 そのあまりにも物怖じしない態度に、恵美は些か疑問を抱いたが、今はそれよりも望を落ち着かせるのが先だと感じ、望の方を見て言う。
「今ここで彼女を殺しても何もならないわ。しばらく安静にさせて、落ち着いたら、また話を聞くべきだわ」
 望は胸で激しく呼吸をしていたが、やがて腹で呼吸をし、そして額の汗を手でゆっくりと拭った。そして、煙草をくわえるとドアの方に向かって歩きだした。
「この子は危険だ。また光と接触する可能性がある。扉の謎が分かり次第、この子は殺す。いいですか? 母さん」
 冷徹に言い放つ望の横顔を、優香は黙って見上げるしかなかった。望が誰よりもこの子を愛している。優香はそう思っていた。しかし、今の望からは彼女に対する愛情は一欠片もあるようには見えなかった。ただ、途方も無い怒りしかないように見えてならなかった。「ええっ、買ったのはあなただもの。私が口出しする事じゃないわ」
 優香はそう言いながら、舞夜の方を見た。彼女自身は意識していなかったが、その顔にははっきりと情が滲んでいた。その視線に気づいた舞夜が、優香を見返す。
 その時、優香は言葉を失った。舞夜の顔は昔の自分にそっくりだった。表情が似ていたのではない。その奥から染み出てくる雰囲気と気のようなものが瓜二つだった。それはただ恐怖に慄いていた頃の自分ではない。復讐を誓い、目をぎらつかせていた頃の自分にだ。瞳の奥から搾り出される、悪意に満ちた視線。絡み付いて離れなくなる、熱く苦しい視線。
 少年を地下室に連れていった時に見た、あの何者にも怯えていない顔。あの顔は自分だ。思い出した。一度だけ。たった一度だけ、院長に笑顔を向けた時があった。それは、拳銃の銃口を向けたあの時だ。
 優香は全身の神経に電撃が走った。これは予感だった。嫌な予感。とてつもなく嫌な予感。自分がここから消えてしまうような、そんな朧気だが恐ろしい予感。優香は指の一本すらも動かなかった。まさに蛇に睨まれた蛙の状態だった。
 望は高圧的な瞳で優香を見る舞夜に、煙草を吹きかけた。その瞬間、舞夜の首が素早く望の方を向いた。そして、望の顔に向かって唾を吐き付けた。僅かに泡を含んだ液体が、望の右頬にへばりつく。
 望は何が起こったのか分からないようで、無言で舞夜を見つめる。優香は瞳を動かす事で精一杯だった。恵美は信じられないとでも言いたげな表情で、動かない望の肩を掴もうと手をのばす。しかし、手は動いてくれなかった。舞夜の大きく開かれた瞳だけがはっきりと意志を持ち、動かない三人を睨み付けていた。
 ほんの一瞬、何も無い沈黙が過ぎ去った。
「‥‥何のつもりだ」
 ゆっくりと望の手が、唾のついた右頬に辿り着く。そして、唾を拭うと舞夜の服に擦り付けた。舞夜は勝ち誇ったような眼を望から反らさない。望は煙草を手に持つと、何の躊躇も無く、舞夜の首に押しつけた。ジュッという音がしたと同時に、舞夜の体が後ろによろめいた。獲物を狙う鷹のような瞳で、望は後退りする舞夜を睨む。
「いい加減にしろよ。喉だけじゃなく、全身も焼いてやろうか? 殺されないからってな、いい気になるんじゃねえぞ」
 火の消えた煙草に再びライターを近付ける望。舞夜は髪の毛をかき乱し、喉に手を当てながらも、おぞましい輝きに溢れた瞳を望から外さなかった。望は大きく息を吸い込み、その視線と対峙する。
 さっきとは違い、痛々しいまでの熱視線の飛び交う沈黙。優香も恵美も動きがとれず、ただその場で立ちすくんでいる。望と舞夜は視線を外そうとはしない。誰もこの沈黙を崩せなかった。
 それを壊したのは真一郎だった。
「声が大きいぞ。光さんに聞かれたらどうするんだ?」
 階段を降りてやってきた真一郎は、その場の情況が分かっていない様子で言う。しかしその抑揚の無い声でも、効果は十分だった。望は振り払うように視線を反らすと、煙を撒き散らしながら、真一郎の横を通り部屋から出ていった。真一郎は意味が分からず、早足で階段を昇っていく望の後ろ姿を見やった。
「恵美、何があったんだ?」
 真一郎は恵美の肩を叩く。その拍子に恵美は膝から崩れ落ち、絨毯に立て膝をついた。慌てて真一郎が、恵美の肩を掴む。しかし、全身の力が抜け落ちたかのように、恵美は立て膝をついたまま動かなかった。連鎖のように、優香が大きなため息を吐き出す。ため息というよりは、今まで止まっていた呼吸が再開したような感じだった。その様子を、舞夜は冷えた瞳で見下ろす。もう首は押さえていなかった。その首にははっきりと焦げた痕がついていた。


 望が車庫から出ていく様子を、二階の窓際に佇む光が静かに見下ろしていた。部屋の電気は消してある。寝ていると思わせる為だった。しかし、彼女は眠っていなかったし、何よりも全く眠くなかった。明日から、何かが大きく変わるだろう。引き金は自分だが、後は勝手に事が運ぶはずだ。それが最終的にどうなるかは分からない。しかし、これだけは確信していた。
 ここには自分とあの子しか残らない。他の四人は消える。
 光は心の底から沸き上がる愉悦のような感情を抑えきれなかった。果たしてそれが本当に愉悦という感情なのか、自分でも理解出来なかった。
 快楽? 怒り? 安堵?
 どれも当てはまらないような気がする。しかし、今まで感じた事の無い何かが、光の体の奥底で熱くたぎっていた。
 カーテンを静かに閉めた光は、ベッドに寝そべった。カーテンからは月の明かりが鈍く射し込んでいる。どこか安心出来る、悠久の昔から変わる事の無い輝き。この輝きはあの子の笑顔を連想させる。雨の日にもし月が出るのならば、その光景はあの子が泣いている時と同じような光景なのだろう。
 光は明日からの事を思うとわくわくした。まるで小学生の頃、まだ本当の母が生きていた頃、昇と望と光と、そして母の四人でピクニックに行く前の日のような、そんな子供じみた高揚感だった。しかし、それでもいい、と感じていた。
 不思議な満足感を胸に抱えたまま、光は布団を被った。いつか、この布団であの子と一緒に寝ようと思いながら。


第三章・完
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